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あの日あの時 2004年10月23日 みんなの体験談

人生が一転す  内ヶ巻 72歳女性

「水害、台風もはずれて良かったね!」と近所の人達と話し合った数日後の夕方5時56分、未曾有の大地震が来襲した。25,26日と一泊の同級会の為、不思議と身のまわりの物は片付けてあった。一回の揺れで玄関のサッシはバラバラ、下駄箱は倒れ、壁板は剥がれ足の踏み場も無く、やっとの思いで懐中電灯を見つけトイレに逃げて行った。子供の頃、竹薮と四本柱のトイレは地震に強いと聞いていた。その後の度重なる余震でトイレの戸が閉まらないよう足で踏ん張り、12個入りのトイレットペーパーを頭に乗せ、いつになったら止まるかと揺れにまかせていた。その時、「カーチャンいるか?」と男性達の救いの神あらわれる。いったん避難はしたが、ガス栓を止めに行ったところに又震度6強が来、数人ドカドカと地面に投げ飛ばされ、その時膝と肘をすりむき心臓は大きくアフアフとし、いつ止まっても不思議はなく、よく生きていたものだと思う。電気・電話線も柱からちぎれ、漏電するからとそれ以降音信不通。ガス・水道はもとより山崩れで交通もとだえ、町内は孤立した。救援物資は町内委員と消防団の方が2、3人組になり、徒歩で行き来し私達に下さった。私も班長だったが女一人では無理、と委員の方が代わってくれ、二週間避難所でお世話になった。

地震当日の晩は夜空が澄み、とても寒かった。カマボコ車庫を提供してくださった方がいて、そこに20数人で身体を寄せ合って暮らした。とてもコミュニケーションがとれ団結し、夜警団は遅く迄火を焚いていた。毎日5,6人してお地蔵様のように並び、ヘリコプターが通る度、物資を落としてくれますように願った。昼夜を問わず数機のヘリコプターが行き来するが爆弾が落ちるわけでもなく、火災もなく戦争よりもいいね、と話し合う。

下条(注:十日町市)の温泉が入れるようになったからと連れていってもらう。トンネルを過ぎると電気はついているは、バスも通っているはでビックリ。暗闇から抜けて、天の岩戸とはこの事だと思う。浴室の大きなガラスにはヒビが入っていた。

明かりは自動車のライトだけ、道路はデコボコ地割れで山は崩れ、やっと我が家の被害の甚大さを気が落ち着くとともに実感でき、「仮設に入ろう」とその時思った。

総代さんにお願いし税務課に行き罹災証明書をもらい、市役所と総合体育館に手続きのため何ども歩いて往復した。その後、この総合体育館で避難生活をする。奇しくも4年前の10月23日に怪我をし、リュックは背負えず重いものは持てなかったこの身体が今回の地震のショックで出来るようになり、災い転じて福と成す。仮設の申し込み受付の通知があった時は安心で肩がスーッとした。

町内五十数件のうち、仮設住まいは我が家一軒。どこへも家財道具を持って行くこともできず、NPOのお世話でやっと全部始末し、「冬は必ず春と成る」を信じ仮設住まいに入る。仮設はとても暖かく、住みよい所だ。沢山の同じ苦しみを味わった人達の中、毎日集会所の談話室へ行くのを楽しみにしつつ時が過ぎるのを待っている。

総合体育館での自衛隊の食事、お風呂、今はとても懐かしく有難く、これはほんとうに有った事なのかと思う。10歳の時第二次世界大戦を体験するとともに小千谷に来、また60年過ぎてこのような震災にあい、これも運命か・・・。

我が家も豪雪地帯、余生を思い融雪屋根にし、道路もヒーティングと東山小学校と同時に作ってもらった最高の融雪設備で楽しく暮らしていたが、2,3秒の揺れ、度重なる余震で我が家は半壊し住めなくなり生活が一変し、一生が狂ってしまった。融雪設備で冬場は楽になったとは言え、夏は草刈等、広い敷地に住むのも身体にキツクなってきたところにこの地震・・・。これはきっと神様が「少し身体を休めなさい。」と私に与えてくれた賜物だと思うことにしよう。

早く水仙が咲き、桜が咲き、春の来る雪消えを楽しみに待っている。ボランティアセンターのパソコンで今点字を習っているところ。覚えられるかなぁ?元気をだしてガンバロウ!

内ヶ巻  小千谷市の東南に位置し、川口町に隣接している。
カマボコ車庫
あの日あの時 2004年10月23日 みんなの体験談

第一回  2005年3月発行

あの日私達は   小栗山・75歳男性

10月23日午後5時30分、会議が終わりマイクロバスに送られ、ひ生地内の中ほどに来た時、突然バンバーンとバスが難破船のように上下にヨジレて物凄くゆれて止まった。 一瞬「地震だ!」と運転手が大きな声で叫んだ。揺れがひどく一時通路脇に停止していたが、これは唯事でない、兎に角でかけようと小千谷生コンの近くへ行ったら2台程の車が、 もう道がない!これ以上前には進めない。引き返して17号線に出て長岡方面へ、上越線トンネル前に来たらもう道路は跡形もなくガレキの山、万事休す。

車を降り上越線の線路を歩いて渡り、浦柄地内へ入り、花屋さんの前まで来たら道路にピチャピチャと水が流れてきたので、「これは水道管が破れたなぁ」と話しながら50メートルも歩かぬうちに段々濁流になり、大きな石や丸太がゴロゴロと流れ出し、水かさは我々の膝までになり、もう危なくて歩けない。

民家の高い方に急いで避難、みるみるうちに濁流に車が1台2台と流され小屋の屋根の様な物も流され、それはもう地震に水害の追い打ち、此の世の地獄と思われた。

20分、30分待っても濁流の勢いが増すばかり、村の消防団の方に「お前方、これから先は絶対行けない」と言われ、「でも自分たちの家、家族が心配だ、何としても帰りたい。」 と言ったら村の長老の一人が「お前方も心配だろうし、本当に帰りたいのなら俺が山道を知っているから、寺沢の農道まで案内する、それから先は分るだろうから農道を辿って行けば帰れると思う。」と言われ私共6名「よし行こう」と案内人のあとを道なき道、壊れた養鯉池の土手をドロンコになって、妙見神社の灯りの見える所まで山を登った所で漸く農道らしき道にたどり着き、「お前方これから先は月明かりで農道を辿って行けば、国道におりられるだろう」とのことで、本当に有難く、みんなで幾度もお礼を言って別れた。

下り始めたが道は所々山崩れで、ヤブの中を見当で声をかけ合って、下の国道にたどり着いた時はみんなでほっとした。

幸いその夜は昼もあざむく月明かりで本当に助かった。しかし東山トンネル前まで来たら、トンネルの中程まで土砂で一杯、また別ルートを取るしかない。

田んぼの畦、キスの土手、無残にヒビ割れた池や饅頭の様に盛り上がった田んぼの畦を歩いてヘトヘトになって家に辿り着いたのは歩き出して3時間程だったろうか?

後で皆さんに逢い無事をよろこび合って話したが、若し5分早く出発していたら、500m程の道のりの一瞬にしての山津波にのみ込まれていたに違いないと、ぞっとした次第です。

その後、家は一部損壊、修理すれば何とか住める状態、村は孤立、三日後に漸く自衛隊のヘリコプターで全村避難、約2ヶ月市の総合体育館で避難生活後、今の仮設住まい。 先の見えない避難解除、帰ったら田んぼや鯉もやりたいと念じつつ、全国からの大勢の皆さんからの激励、ご支援を感謝いたしております。

ちなみに私は、国県の復興支援を待っていては何時になるかわからん、自力で復旧出来るところは自分で、と20haの田んぼと30ha程の稚魚池の復旧を業者に頼んで始めたのですが、 降雪のため全部復旧出来ず、春の雪どけを待っております。


※小栗山(こぐりやま)地区は小千谷市の東北に位置し、浦柄(うらがら)地区より入ります。
震災時、浦柄の中央を流れる朝日川が山の崩落によって塞き止められ、また上流部の養鯉池が決壊したことにより洪水が発生したため、小栗山地区は入る道がなく孤立状態となりました。
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