あの日あの時 2004年10月23日 みんなの体験談 地震・その時 61歳女性
2005年7月号 この日長岡医師会館にて、パーキンソン病公開セミナーが開かれ、小出・堀之内・小千谷の友人と4名で参加した。
パーキンソン病について」新潟大学脳研究所神経内科西沢正豊教授の話しを聞き、国立犀潟病院理学療法士長近藤さんより、リハビリ教室が行われ多数の方が参加、分かりやすく指導してくれた。また、1週間後の1泊研修旅行での再会を楽しみに帰路につく。小千谷の友人を家まで送り川口回りで堀之内に向かった。下島でガソリンを入れ少し走った所で車が急に大きく揺れ、電気が全部消えた。電柱がゆらゆら、すぐに地震とはわからず、前の車が端に止まったので私も車を止めて、大丈夫な所を探して端に止まった。最初は何が何だか理解できなかった。車のタイヤ4本とも同時にパンクでもしたかのような突き上げるような大きな揺れだった。後部座席に2人の友人が乗っていてくれたのでとても心強く助かった。
友人が「ラジオ・・・」と言ったのですぐスイッチをいれた。大きな大きな地震でした。次々と続く大きな余震の中を堀之内と小出の友人を送らなければと、信号機も消えたデコボコ道を(地震でデコボコになった道)大きく揺れながら走り続けた。
堀之内の友人の家まできたら、ご主人と娘さんが玄関の外で待っていてくれてホッとした。小出の友人は自分の車を運転して帰ると言うので、余震が続く中ゆっくりゆっくり信号機のついていない真っ暗い道を走っていく。ご主人が奥さんの帰りを心配そうに待っていてくれた。
友人の家族皆が怪我もなく会えた事に一番ホッとして帰路についた私でした。殆どの人が初めて大きな地震を体験したと思うが全てのライフラインは駄目、尊い命が奪われ地震の怖さを知ったのは、数日が過ぎてからかもしれません。
帰り、下島をすぎて和南津トンネルの手前でストップそこで何時間も待つことになった。
携帯電話は何処にも通じず、不安がだんだん大きくなってきたところに、主人から携帯電話が入った。声を聞いた時は本当にうれしかった。100回くらいのリダイヤルでやっと連絡がとれたと言った。「家の近くのグランドに避難して」と言ったのですが「山が崩れて車では行けない」と言われ、まだ小千谷の状況が理解できていない私でした。
皆の顔がうかびけがはないか?食事は?薬は?と次から次へと不安が広がってきた。
悲惨な地震にもかかわらず、いくつかの偶然が私を助けてくれた。
・車のガソリンが満タンだったこと。
・車の同乗者がパンを持っていてわけてくれたこと。(和南津トンネルの近くで小千谷に帰る人と一緒になった。)
・車の中にはいつもクッションが入っている。(大きく広がる)そして携帯電話を充電するコードが用意してあったこと。
・和南津トンネルがだめならと、八ヶ峠を越えて岩沢の橋まで行ったがだめ。下条から真人にむかった。真人の入り口でストップ。どうしても小千谷に帰りたいとたのんで通してもらう。車で行けるところまで行って後は歩いた。主人が歩いて迎えに来てくれたのでとても助かった。
・家にいたら命はなかったかもしれない。自宅近くにやっと着き、主人は見ない方がいいと言ったが、見てビックリ!大きな大きな岩が台所とお風呂場に飛び込んできてた。パーキンソンの公開セミナーに参加させてもらっていたので難を逃れた。
・母も近所の方も怪我は無くよかった。
何日か過ぎてやっと小千谷の友人宅へ、2人で抱き合って泣いた。
パーキンソン病友の会の会長より2名の会員の方に連絡が取れないと言ったのですぐ本部へ、本部の職員の方はとても親切に連絡をとってくれた。
震災で失ったものは沢山ありましたが、新しい沢山の出会いと多くの方々の支援に心から感謝しているこの頃です。
復興はこれからが本番だと思います。雪が消えて周りがよく見えてきました。子供から大人まで心の傷は大きく・・・でも人間は支え合い助け合って生きていけると信じてます。
皆でまた、笑える日が来ることを願って小さな力ですが協力できたらうれしいです。
最後に小千谷市ボランティアセンターの方が小千谷市民全員が被災者ですと言った言葉が心にしみています。 |
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